top   格闘技秘話

 

庄司四段のご子息からのメール

我が父ながら家庭に外の事を持ち込まない人でしたのでその足跡は家人が意外と判らず、
かの靖国においての試合も私が父から聞いた話では”サンテルは本当に桁違いに強かった、
(父も)ゴングで救われたがもうろうとする意識の中で必死で落とされまい、なにくそ!とそれだけだった、あと5分永かったらどうなっていたか”と言っていたのを覚えています。

定かでは有りませんが、私の記憶ではそのあと講道館の先輩の徳三宝(姿三四郎のモデル)等の取りなしで
講道館に復帰し、7段までいったと思います。

しかし、そのときに”徳三宝なら勝てたかも・・・”ともいっていました。
この徳三宝という人は父から見ても段違いに強かったそうです。
嘉納館長などと一緒に写った写真が有りましたので柔道博物館に複写を寄贈して有ります。


父はそのあと大正11年に早稲田を卒業して、政治学の勉強のため南カルフォルニア大学に留学し、
卒業後向こうで政治学と柔道の講師をしていたとも聞いておりますが早稲田大学のレスリング部の基を作った事は聞いております。
八田さんとも先輩後輩でレスリング部創設の際は協力してやっていたようですが、後に互いに違う協会を作り、
父の作った協会は本人の意識との違いもあり後継者も無いまま終わったようです。

その後、映画会社を作ったり、北海道漁連で船をもったり、
片山哲内閣の時に盟友の鈴木茂三郎氏に誘われ衆議院議員になったりと、
鳥取の境港の渡村という寒村からでた青年はやりたいように人生を送った様です。

家では多くを語らず、気が向くと家族を誘って映画や喫茶店に行くのが好きな人でした。
ロマンチストで寂しがりやで、優しかったので女性にはもてた様です。
只、私が弟と兄弟げんかをしたときに猫のようにつままれて池に放り込まれたのを覚えています。
又、いたずら好きでも有りました。

 

毎朝200本の手製の木刀での素振りは欠かさず、外出の時はいつも藤製のステッキをついて、
映画館の切符を買う列にこわいお兄さんが割り込んだりするとそのステッキの曲がったところを首に引っかけ、
「皆が並んでいるのだから並びなさい」といってそのお兄さんが凄んだ時に
黙ってにらんだ眼光の凄さは子供心にわすられません。

 

久々に父のことをいろいろと思いだし、それに奇しくも今日は父の命日でしたので
らちも無いことをながながと書いて、お目汚しかと思いますがお許し下さい。
ともかく、明治の暢気さと物をやるときは徹底してやる意志の強さは敵いませんでした。

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