庄司四段のご子息からのメール
定かでは有りませんが、私の記憶ではそのあと講道館の先輩の徳三宝(姿三四郎のモデル)等の取りなしで
講道館に復帰し、7段までいったと思います。
しかし、そのときに”徳三宝なら勝てたかも・・・”ともいっていました。
この徳三宝という人は父から見ても段違いに強かったそうです。
嘉納館長などと一緒に写った写真が有りましたので柔道博物館に複写を寄贈して有ります。
父はそのあと大正11年に早稲田を卒業して、政治学の勉強のため南カルフォルニア大学に留学し、
卒業後向こうで政治学と柔道の講師をしていたとも聞いておりますが早稲田大学のレスリング部の基を作った事は聞いております。
八田さんとも先輩後輩でレスリング部創設の際は協力してやっていたようですが、後に互いに違う協会を作り、
父の作った協会は本人の意識との違いもあり後継者も無いまま終わったようです。
その後、映画会社を作ったり、北海道漁連で船をもったり、
片山哲内閣の時に盟友の鈴木茂三郎氏に誘われ衆議院議員になったりと、
鳥取の境港の渡村という寒村からでた青年はやりたいように人生を送った様です。
家では多くを語らず、気が向くと家族を誘って映画や喫茶店に行くのが好きな人でした。
ロマンチストで寂しがりやで、優しかったので女性にはもてた様です。
只、私が弟と兄弟げんかをしたときに猫のようにつままれて池に放り込まれたのを覚えています。
又、いたずら好きでも有りました。